読者コメント・感想

 
◎ 2015年8月15日(土) 「身体能力か・・・」
・ 拙著『あるようにあり、なるようになる 運命論の運命』(講談社)への言及(コメント)─メールや手紙によるもの等─の中で、印象に残る表現がいくつもある。
・ たとえば、「相変わらずのエネルギッシュな形而上学魂」「哲学的身体能力の高さに感動」「運命論へと引き込む腕力」「劇薬まちがいなし」「達人の生を生きる」「横溢する自由闊達さ」「シャープさに柔らかさと射程の長さが兼ね備わった感じ」「息を飲む刺激とともにそれまでの概念や感覚を揺るがされる」・・・等々。どれも本の「帯」にも使えそうな表現である。
・ 「身体能力」という比喩を使う文言は、(「入不二節(ぶし)」などと並んで)私の論考への評言では定着した感もある。
・ 文庫版『相対主義の極北』(ちくま学芸文庫)の解説で、野矢茂樹さんが「(・・・)私が入不二の書くものに感じ入るひとつの理由は、いわば彼のもっている思考の「身体能力」とでも言うべきものにおいてである。例えば、私が体操選手だったとして、私にはできない動きを見せている選手がいれば、うらやましく、そしてくやしくもなるだろう、そんな感じである。」と書いてくれているのが嚆矢か?
・ たしかに、思考の「身体能力」にはそれなりの自信はあるけれども、しかし、文字通りの「身体能力」の”高くなさ”には、レスリングの練習をするたびに直面させられている。
・ もう少し正確に言えば、平均よりは少々高い(かもしれない)程度の身体能力では、身体能力エリートであるレスラー集団の中では、その劣等を如実に突きつけられっぱなし。
・ 昨日午後(16:00~18:00)は、大学レスリング部の練習に参加。4本のスパーリング(猪口君・竹之内君と)においても、全く何もできずに、いいようにポイントを奪われて、弄ばれるばかりで終わる。
・ 寝技のスパーでも、守りの時にはさんざん回され、攻めでは取り切れないまま時間切れ。
・ 2週間ぶりのレスリングで、しかも蒸し暑いレスリング場の中で動き回って、疲労困憊で終了。
 
・ ツイッター上で、若い読者(@paradentana)の方が、さらにうまい言い回しで『ある、なる』を褒めてくれていたので、こちらにも引用して保存。
・ そのあとのリツイートへの連携もイイ。
> ・ 入不二先生の運命論本がすごく面白いのは、一つの問題に対して真正面から非常に精密な形で取り組む姿を僕らにも追体験可能な形で提供してくれるからなんだろうなと。その取り組みの中で新たな概念が産まれ、その概念を手に新たな課題に進んでいく。入不二先生の問題意識が自身のものと→
・ 異なっていたとしても、どのようにすれば「問題」に対して正面から取り組む事が出来るのかを実際にやってみせてくれるので、励まされるしその圧倒的な哲学的身体能力に感動する。言ってみれば、哲学的概念だけの解説だけをしてる解説書が陸上競技の結果だけを→
・ 伝えるようなものだとすれば、入不二運命論はアスリートの身体感覚をそのまま追体験出来るようなVR装置のようなものなのかなと。わっちも学会員の在り方とその源泉となっている教理と、だーいけ先生の「指導」との関係性を的確に摘出する学会論を完成させたいお。
> > 念仏bot @namuamidabutz どんなに深遠で切迫した哲学的課題もおっぱいの前には無力 >
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阿部嘉昭 2015年8月15日
【じゃんけん関係】   自慢ではないが、女房とじゃんけんするとぜったいに負ける。一回じゃんけんならその場のなりゆきで勝つこともあるが、五回じゃんけんでは、たぶん勝ったことがない。「ありえないこと」のようだが、事実はじっさいそのようにくりかえされている。くやしいのか。これがよくかんがえてみれば、ぜんぜんくやしくなどないのだ。   女房は小鼻をふくらまし、勝ち誇っていう。「あんたはパターンが読めるのよ。パターンを崩して意想外をねらう、そのパターンすら読めるのよ。猿知恵まるだし」。あいかわらず口調がにくたらしい。   けれども勝ち誇ることだろうか。だいいちこの相手(=女房)が、パターン読解にかかわる高度な技術を十全にもちあわすほど知的な輩ともおもえない。例の動物的な勘で、せいぜいが「グーを出しそうな顔色」「パーを出しそうな顔色」「チョキを出しそうな顔色」を瞬間的に見分けているていどにすぎないのではないか。女房のきらう長嶋茂雄型。ひとはきらうものに似る。   整理しよう。じゃんけんはその場その場の分岐的選択だ。このとき「たまたま」当事者どうしに勝ち負けの振り分けができるにすぎない。この結果がオケージョンの積み重ねごとにバラつかず、かならず女房の勝ちへと収斂してゆくということは、実際は技術的な巧拙というよりも、取合せパターンが一定性のなかに織りあげられてゆく律儀さが演じられているということだ。しかもこの一定性は相補的で、片方が片方を下支えしている。   ぼくは女房の「勝ち」に協力しているのだ。「許容性がたかい」とはいわれても、「バカ」といわれる筋合いなどない。   愚かな女房は気づかないかもしれないが、ぼくにかならず五回戦じゃんけんで勝つ、ということは、ぼくにかならず五回戦じゃんけんに負けていることと、結果形成という点では「ひとしい」のだ。なぜなら「バラつかないこと」だけが形成されているのだから。ひとは個々のじゃんけんで運命の神にたいしその場その場で勝敗を訊ねているのではない。いっけん偶然性が作用するようにみえるじゃんけんという遊戯で、蓋然性(「そうなりがちだ」)、もっというと必然性(「かならずそうなる」)という「傾向」にむけて、退屈な形成をオケージョンごとに、精確にくりかえしているにすぎない。   はっきりいおう。もしたまたま決められているだけの、じゃんけんの勝ちパターンにたいし、その法則をひっくりかえすとどうなるだろうか。つまり「パー<グー」「グー<チョキ」「チョキ<パー」という逆則を適用してみるのだ。そうなると、これまでの女房との五回戦じゃんけんでは、ぼくのほうが全勝していたということになるではないか。   むろんじゃんけんで「パーがグーに勝つ」「パーがグーに負ける」は遊戯規則の設定のうえで、同程度の振り分けにすぎない(どちらも可能的な三分の一どうしの対峙)。この意味ではぼくと女房のじゃんけんでは、「あのときパーを出さなかったら」といった「運命論」など介入する余地がない。事態推移はただ「退屈に」、たとえば女房のパーを出す傾向にぼくのグーを出す傾向が束ねられていっただけだ。勝敗にかかわる選択の精確さでは、女房とぼくの存在の感触(というべきもの)は「ひとしい」。片方が片方に勝ったのではない、「対」が同一傾向をくりかえすだけなのだ。   つまり女房とぼくのじゃんけんでは、女房のいう能力論は適用できないし、運命論も適用できない。すごく退屈で、論じるにあたいしない事態でしかない。存在の質に一定の段差があるていどのことで、それは女房とぼくの身長がちがうぐらいの、あたりまえの分立にすぎない。いうなれば、優劣にかかわらない「個性差」が、いつも潜勢域から顕在化していっただけだ。   入不二基義の運命論にかかわる新著『あるようにあり、なるようになる』では、綿密な思考と大胆な所論、さらには先行的思考にたいする果敢な判定をつうじて、「運命論」擁護サイドと「運命論」否定サイドの対決するリングがこしらえられる。やがてこのリングが擁護も否定もともに運命論擁護であり運命論否定であるという厳密な「中間性」に染め上げられてゆく。この推移を経由してみると、いわば運命論の立脚する場所に、なにか晴れ晴れしい思考化や人間化のほどこされた感動が生ずる。読むのに体力が要ったけれど、そんな好著だった。「ロンドン空襲の挿話」にかかわる腑分けなど見事なものだ。   その運命論をかんがえる道具のひとつに、「じゃんけん関係」というのがあるらしい。ぼくのかんがえではじゃんけんにおいては、必然も偶然もおなじで、そのとき出し手を決定した自己判断をどこまで遡行していっても、その出し手にたいし偶然と必然を振り分けることなどできない。女房は「必然」をいうが、わかっていない。つまり必然でも偶然でもいかように記述できるものにたいしては、果敢に必然と偶然の「中間」を適用させるしかないのだ。   「中間はただ中間性をくりひろげる」。これが、じゃんけんに常勝することとじゃんけんにかならず負けることはひとしい、ということのいいかえにもなるだろう。